マンガ道。

漫画家森山まみちのブログです。秋田書店ミステリーボニータにて宮沢賢治の物語「銀のノスタルヂア」を不定期掲載。こちらは主に私的日記です。

近況。

ご無沙汰しておりました。

 

はやお盆も過ぎて、やっと暦の上では

晩夏に入るも、

 

日中殺人レベルの酷暑が恐ろしく、

屋内にて避難している日々でございます。

 

 

自分の近況ですが、

 

 

。。。。。。最後の更新から、

何も変わらず、

 

何かはじめなくては、と頭では思っても、

無欲の砂に流されて

結局家事以外はずっと眠り続けている日々です。

 

あそこまで寝ているのに、

いまだにまだまだ眠れます。

 

 

冬眠してるのか、というくらいです。

 

 

動画とるの。。。。めんどくさ。。。。

ウォーキング。。。うぜえ。。。。

まんが。。。。考えたくな。。。。

 

 

気持ちとしてはこのような感じ。

 

このお盆中は

 

祖父母に般若心経を唱え、

YouTubeフェルミ研究所の漫画動画にハマり、←面白い

Amazonプライムの「白くまカフェ」にハマり、

ユニグラ見て、若干凹み、

アイスを5個一気食いして下腹部の激痛と戦ったり、

スピリチュアル系のYouTubeを見たりして

ほんと自堕落に過ごしました。

 

 

あ、保育園のママさんと話しているときも

「自分、今無職なんすよね。。。」

と近況を話してみたり。。。。

 

 

あと、マイブームなのが

 

午後の紅茶の、今夏の自販機限定販売中の

シトラスティー

ビルの高いところで風に吹かれて飲むこと❤️

 

 

あーもう、オーガニックとか無農薬とか

どーでもいいわ、んなのめんどくせえ、

ビルから動く夏空を眺めて

このシトラスティー五臓六腑にしみ渡るだけで

生きられるわーーー✨

 

 

娘の保育園のお迎えに行く前に

夕凪にふかれつつ何も考えずに飲む時間が好きです。

 

 

 

 

あ、話は戻りますが、

 

アニメの「白くまカフェ」は人生どん底の状態で

見ても、すごい面白いです。

 

落ちているとき、わたしはもう何もインプットできなくなる

困ったタイプなんですが、

 

「白くまカフェ」はあのシニカルさが実によき

薬となり、自然と笑いがこみ上げてきます。。。

鬱期におススメ。

 

 

スタッフが同じということですが、

個人的に「おそ松さん」より「白くま」が好きです。

子供と一緒に観れるので😅

 

 

 

 

 

 

ただ、嬉しいことが今日ありました。

 

 

 

それは、

今日やっと、やっと

机に座って原稿が描けたことです‼️

 

 

ずっと逃げ続けていたのに。。。。

 

 

自分って寝る以外に何もやることないんやなーと

 

思って、そろそろ寝飽きたし、

じゃあちょっと線だけ入れてみようと

やってみたら。。。。

 

 

 

わりとスイスイ入った‼️😳

 

 

なので、今日はなんだか嬉しかったです。

 

 

あと、いい加減パジャマ姿のリラコで

一日中過ごすのもよくないですよね。。。。

 

 

不思議なことに、このような状態になって、

メンタルノートが書けません。

 

あれだけ好きだった

 

ノートに何かを描く、

 

ということさえ億劫になって。。。。

鬱のときは本当に好きなことさえも

できなくなるんやな、。。。と思いました。

 

 

 

。。。。なんだかだらだらと書いてしまいましたが、

すみません。

 

近況はこのような感じです。

 

 

全快までは程遠そうですが、

 

 

どのような姿であっても、

 

 

 

い、生きねば。。。。。

 

 

 

ですね。

 

 

 

 

無の時間。

先週の金曜日から、明日まで四日間、

父子は横浜の実家に里帰りしている。

 

とってもありがい1人になれる日が

4日も頂けた。

 

 

主人も娘も義父母もわたしが1人が好きな

変わり者であることを認めてくれている。

 

それに、嫁がいるより息子と孫だけの帰省の

方があちらも気楽に違いない。

主人にとっても親に甘えられるので気が休める。

 

お互いウィンウィンの時間を過ごせている。

 

 

この三日間、何をしていたかというと、

 

ずっとYouTubeで、これから自分がどう

 

生きれば納得がいく人生が送れるのか、

 

あらゆるユーチューバーさんの動画を見て

考えていた。

 

しんどくなったら眠って過ごした。

 

ダラダラ、ゆるゆる、ベッドの窓から青空を眺めながら

寝ころぶことはいいものだと思った。

 

 

わたし自身も、不動状態が少しづつ溶けて、

 

動こう

 

 

という意思が湧いてきている。

 

6月から何かやる気が出ず、ずっと不動状態だったので、

実に2ヶ月間ベッドで寝たきりの生活を続けていたわけだ。

 

 

ひたすら眠いときは、人生の上で変化が起こる兆しなので、

きっと自分においてもそうなのだと思う。

 

 

そして、自分自身も変わらねば、という思いが

飽和状態になりつつある。

 

 

以下、iPadのメモにかいたこと

 

 

 

洗濯と家を掃除してから作画をする。

 

 

無欲でいる。

 

 

 

読み手のことを思って丁寧に漫画を描く。

「誰を対象に見せているのか

どうしたら喜んでもらえるのか

 

 

自分という人間と、作品の

一番のプロデューサー、大ファンでいる。

 

 

自分超大好き人間になる。

 

 

 

1日で自分の愛する漫画を毎日描き続ける時間を

出来るだけたくさん持つ。

 

 

 

 

メモの全ては守るのが難しいと思うけれど、

 

これまで自分が何故どんよりしているのか、

「こんなもん」の存在で終わっているのか、

色々振り返り、あらゆるYouTubeを見て

これはいいやり方だな、と思ったことをメモした。

 

 

専業主婦のやるべきことはこなした上で、

自分のやりたいことに、

自信と愛着をもって、表現できればいいと思う。

 

 

こういう自分自身を振り返る時間、無でいる時間は

人生で必要である。

 

 

さて、この数日昼も夜中も

とにかくたくさん動画を見たが、

 

 

数あるYouTubeでも、一番わたしが腑に落ちた

動画が、外国の女性のライフ動画である。

 

 

「成功に関するパワフルな考え方」

についてシェアしている。

 

 

とてもチャーミングで聡明な女性である。

 

 

 

わたしはここで紹介されている「成功」の

意味の捉え方がとてもしっくりきたので

貼っておきます。

日本語訳があるのでご安心を。

 

 

 

m.youtube.com

 

 

 

 

成功はプロセスを愛することから始まる。

 

たしかに、「銀のノスタルヂア」を描いていた時、

そのプロセスはとても幸福であった。

 

 

その幸福感を、最近は結果を重視することで

忘れていたようである。

 

失敗ではなかった。

 

 

けして自分がやってきたことは

 

失敗ではなかったのだ。

 

描いているときに、あそこまで幸福で救われたのだから。

 

 

 

この数ヶ月は目先の欲に気をとられて

その大事な気持ちを忘れていたのだ。

 

 

 

そのように振り替えれたのも

無の時間があったから。

 

 

この三日間、子供の世話も家族のことも

考えずに過ごせたことを心より感謝している。

 

 

娘の保育園のお迎え時間を気にしたり、

買い出しに片付けをやったりしていると、

一人で自分自身と向き合って模索している時間が

一度中断され、とてもじっくり自分なりの答えを

見出すことはできなかったであろう。

 

 

そしてひとつ、自分なりにやっぱりそうかもね、

と認めたことがある。

 

 

それは

 

わたしが「稼げないタイプの人間」であるということだ。

 

 

この世には2つのタイプがある。

 

社会や生活のリズムに適合し、稼ぐことができる人。

 

 

もう1つが、

 

 

どうしてもお金がうまく稼ぐことができずに、

周囲に助けてもらう人

 

 

 

である。

 

 

 

ちなみに、わたしの周囲の人間は、全員

前者の「稼げる人」である。

 

 

それゆえ自分も同じ。。。と

思っていたが、今になって、どうやら自分は

全くそうでないことに気づいた。

 

 

 

ふらふら心の振り幅が大きく、鬱で激情型で

毎日同じ仕事をすることができない。

 

 

心屋仁之助さんのYouTubeをみて、

 

そんな人を

 

 

寄生虫

 

といっていたが、まさに自分はこれまで家族や夫の

血をチウチウと吸っていたヒルであった。

 

 

社会生活に適合できずに自分のやるべきことを

通した人物は歴史上でも沢山いる。。。

 

 

まず頭に浮かぶのがゴッホだ。

 

彼は絵を描くことで生きていたが、

周知の通り、生活費や画材は最後まで弟のテオに頼っていた。

 

 

また、宮沢賢治もその部類に入るであろう。

 

もちろん、教師になったりして職を得たこともあったが、

当時、60円も70円も入っていたお給金は

家には入れずに全て自分の趣味の本やレコード集めに費やしたり、

お金が必要な人や生徒へ与えていた。

 

本を作るにも、父政次郎の財力に頼っていた。

 

 

まず、生活能力が低い部類に入るタイプかと思う。

 

 

さて、女性でそんなタイプはいたかなあ。。。

 

 

これから令和の時代、

 

スピリチュアルの人たちは

 

 

女性がキャリアを積んで輝く時代だと

強く訴えている。

 

 

つまり、女性も、「稼げる人間」でないと

認めてもらえない時代が到来したらしい。

 

 

そう振り返ると、自分がこれから歩む道は

時代とまさに逆向しているではないか。

 

 

しかし、私にとっては、

 

漫画は自分の魂の救済措置であり、

自由に表現できる1番の場所でもあるので、

 

 

たとえ令和の女性が輝くキャリアをもつ時代に

ゆき遅れた、なんのキャリアも持てなかった

時代遅れの女でいいや、

という気持ちでもいる。

 

 

ただ、今まで自分をないがしろにしてきたり、

卑下したり、自信をもてなかったり、本心を言えなかったり、

「自分なんてこんなもん」と思っていた

不安ばかりを感じていた気持ちとは

 

 

丁寧に、今まで自己を見つめるきっかけを作ってくれて

本当にありがとうといって

感謝の気持ちでさようならをいいたい。

 

 

そうして、新鮮な空気を久し振りに吸いたい。

 

わたしとナガサキ

本日11時2分黙祷。

 

鐘が鳴る。

 

 

遠い時代の奥深くから鐘が

重く、深く重く鳴り響く音がする。

 

 

 

 

 

 

わたしがナガサキについて詳しく知り始めたのは、

ヒロシマより遅い。

 

 

中学生の修学旅行で九州に行き、

その平和学習の一環でナガサキを訪れたことである。

 

 

そこで2017年にお亡くなりになるまで原爆の惨状を

訴え続けた谷口稜曄さんにお会いし、お話を伺った。

 

多くの方々がご存じであろう。

 

背中を真っ赤に焼かれた少年の写真、ご本人である。

 

 

 

静かに朗々と、それでも力強く当時のことをお話して下さった

姿が今でも朧げに覚えている。

 

谷口さんに、「長崎の鐘」をみんなで歌った。

 

 

谷口さんは目を閉じて、涙を流しておられた。

 

 

県下でもワルで超有名だったわたしの中学校だったが、

このときばかりは、みんな谷口さんの言葉を必死に聞いていた。

 

 

その修学旅行中で、わたしは最も尊敬するナガサキ

生きた人と出会う。

 

 

 

その人は永井隆博士。

 

 

被爆当時、当時長崎医科大学放射線医学博士だった。

 

 

 

永井博士は被爆時、病院の地下にいたため

なんとか無事であったが、頭部に深い重症を負う。

しかし、陣頭指揮をとって病院に押し寄せる多数の

焼けただれた患者の救護に徹した。

 

 

翌日、実家に一度戻り、焼けた家の台所から、

妻の遺骨を拾ってまた病院へ戻り、救護を続けた。

 

 

精神的支柱となり必死で市民のために尽くしたが、とうとう

自身も被爆のため白血病が発症、病床に臥す。

 

 

博士は敬虔なカトリック信者で、

教会の有志から、畳2畳ほどの小さなおうちを

作ってもらい、そこで病気に伏しながら執筆活動を続けた。

 

 

 

その小さなおうちを、

如己堂、と名付けた。

 

 

 

己のごとく、隣人を愛せよ、という聖書の言葉から

名付けられたそうである。

 

 

博士には二人の子供がいたが、

残りの命が短い自分が亡くなった時、この子たちはどうなるのか、

その原爆への怒りと子供達の日常を書き綴った。

 

 

当時14歳のわたしは、その如己堂に初めていったとき、

人は二畳の広さでも生きることができるのだなあ。。。ということと、

 

創作は場所や人に関係なく無限であると

 

改めて感じたとともに、

かわいらしくそれはひっそりと佇むそのお家が好きになった。

 

 

博士の著書「この子を残して」は

彼の子供への愛情とやがて尽きる命の哀しみを綴った名著である。

旅行から戻りこの本を読んで、博士が死んだ後の如己堂にひれ伏す子供達の

様子を想像して号泣した。

 

 

昭和26年に永井博士は死去。

 

 

博士が愛した二人の子供もいまは天に召されている。

 

 

 

 

 

14歳に出会ったナガサキでの経験は、

わたしの心の奥深くまで染み渡っている。

 

 

 

 

人間の「真我」というものがあるのなら、

それをはじめて教えてくれたのは

永井博士であった。

 

 

 

長崎では有名な方で、昔、過去の偉人を取り扱った番組

「知ってるつもり❓」でも登場したが、

今は博士の存在は静かに忘れ去られようとしている。。。。

それが残念でならない。

 

 

そして。。。

 

 

 

 

びわたしがナガサキを訪れたのは

23歳の時であった。

 

 

 

私は大学卒業後、

就職活動もせず当時大磯にて隠遁し、

無職でうつを発症していた。

 

 

一番しんどかった時期だった。

 

 

 

そのとき、自分が初めて心の奥から

真実と思えるものを教えてもらった

如己堂に、再び行きたくなった。

 

 

生きることを模索していた。

 

 

 

1人ナガサキの資料館を訪れ、

ちょうど長崎くんちの時だったので

それを楽しみ、

 

ひっそりと佇む如己堂へ赴いた。

 

そこで数時間、軒先に座って何も考えずに過ごした。

日に焼けた畳も、14歳の時にみたままであった。

 

 

安心した。

 

わたしは14歳の頃と全く変わっていない。

 

 

 

 

ナガサキから帰ってきた後、

わたしは如己堂を舞台にした16ページの

作品を、一年かけて作った。

 

 

16ページで1年もかかるなんて、

ふつうに考えればとんでもないことだが、

 

当時うつがひどかった身にとっては

それが精一杯だった。

 

 

その原稿を描いて、ゆっくりゆっくりと

自分の心を癒した。

 

 

この一年は今振り返ると、

なんと贅沢な一年だったろうと思う。

 

 

 

 

 

漫画の内容は確か耳が聞こえない女性と、

新聞配達の青年が如己堂で知り合い、

最後は長崎くんちで締めくくる。。。みたいな

話だったと思う。

 

 

原稿の評価は、その後アシスタントをする前に

技術を先生に見てもらった時、

荒削りだがここまで絵を綿密に執拗に描くのも珍しい、

といわれた。たったそれだけである。

 

。。。一年もかけて描いたので絵がくどかったのは

当然かとは思う。。。

 

 

 

 

そこから、バイトに行きだし、ゆっくりとゆっくりと

自分の漫画の模索も始まっていった。

本当に牛歩のようなペースだったが、漫画を描く、

というフェーズにゆっくりと、向かっていった。

 

 

 

23歳で訪れたナガサキは、14歳のときに感じた

 

 

なにか忘れてはならない

人の魂の中で最も大切なものを

思い出すための旅になった。

 

 

わたしはそれを「真我」と思っている。

 

 

 

ただ、残念なことは

 

十代の頃はナガサキの漫画をいつか

かければいいなと色々考えていたのだが

ネームをきっても、メロドラマ調になってしまい、

 

 

 

時が流れ、その意欲は薄まっていった。

 

 

今でもヒロシマナガサキを描けることは

わたしには難しい、と思う。

 

 

 

 

ナガサキにおいても、毎年黙祷し、

NHKの特集を見るだけ、という

毎年の流れになっているが、

 

 

それでも、

 

 

あのちいさなおうちは、

一生わたしの胸の中の

安らぎの場所として生き続けている。

 

 

 

 

 

コミティアとわたし。

コミティアで知り合ったHさんから参加のお誘いを

いただいた。

 

 

 

私が今落ち込んでいるのをみて漫画の情熱を

取り戻すよう、お心遣いくださったのだ。

 

 

しかし、その日は娘のお稽古事に付き添わねばならないことと、

 

何より、コミティアという熱狂的な創作の情熱がほとばしる

場に今の自分はおとろしくて行けない。

 

いける気力がもてない。。。。。

 

 

 

そんな理由で今回は見送ることにした。

Hさん、ありがとう。ごめんなさい。

 

 

 

今日は、自分とコミティアについて話そうと思う。

 

 

 

私がコミティアに参加したのはたしか25、26歳頃かと思う。

 

当時は今ほど入場者数が多くなく、やっと入場者数が

一万人を超え、まだゆとりがあったように覚えている。

 

その時にはじめて同人誌なるものを作った。

 

拙いコピー本であったが、

 

 

作ったからにはトップで読まれたいと思った。

 

コミティアには読書会というものがあり、

スタッフや有志が、出品した作品を読み、評価を投票するシステムがある。

 

 

私は不遜にも、初めて参加するにもかかわらず、

 

そこで一位をとりたいと狙っていた。

 

 

初めて描いた作品は、

戦前の横浜で花売りをする少女と

新聞記者との淡い恋愛を描いたものだったが、

 

その漫画に賭けるわたしは、ちょっと異常だった。

 

昼に夜に原稿を作ることに

夢中になり、バイトに行く以外はずっと

畳五畳の小さい黄色の机しかない汚い部屋で

墨にまみれて描き続けていた。

 

もっとひどいことをいえば、バイトを休んでまで描いていた。

 

それだけ描くことが楽しかったし、

まだ若く気力も体力もみなぎっていた。

 

 

女も26。

 

ここでトップをとらねば、もう後がない、

絶対上に行ってやる。

 

そんな心持ちであった。

 

 

結果、出品した後に送られてきた読書会の投票の結果は

3位だったか4位だった。

 

 

わたしはうなだれ、舌打ちした。

冊子を放り投げた。

トップでなければ、当時の自分には意味が持てなかった。

その夜はずっと悔し泣きした。

 

 

そこから毎回新作をヘタなコピー本で

持ち込むようになったが、

 

あくまでプロになりたかったわたしは

毎回の売り上げ金額を全て日本盲導犬協会に寄付していた。

お金がなければ後腐れなく同人をやめられるだろう、という

魂胆であった。

 

 

一年後、その同人活動をきっかけに

雑誌の担当さんがついてくださり、

デビューに向けて猛進する時が始まった。

 

 

デビューするにはまず雑誌の漫画賞でトップを獲得せねばならない。

 

そこでまた昼に夜に夢中になり担当さんの

ご指導のもと漫画を描いた。

 

ここでも戦前の靴磨きの女の子と

カメラマンを目指す少年の恋を描いた。

 

 

そしてなんとか努力賞みたいなものを頂き、

 

 

本格的に雑誌に掲載されるデビュー作品を

今度は作ることになった。

 

 

雨の妖精と音楽隊の少年の交流のお話を描き、

 

28歳になった秋にやっとデビューした。

 

 

と同時に、コミティアというフィールドから

じわじわと離れるようになった。

 

理由は仕事に専念したいのと、

不思議と自分の作品が即売会であまり売れなくなったこと、

読者投票でもうまく入らなくなったことだった。

 

 

これはもう撤退しろということだな、と

察知した私は、しばらくコミティアから距離を置くことになった。

 

 

たまに一般参加に行って持ち込んだ原稿を出張編集部で酷評されたり、

どんどん参加人数が増えてパニックになりそうになったりで、

そのまま足は遠のいてしまった。

 

 

ちなみに、自分の正直な感想を言うと、

なぜ出張編集部の編集は上から目線の人が多いのか

疑問である。

たまたまそういう人ばかりにでくわしただけだろうか。。。

なので、出張編集部は私自身はあまり当てにはしていない。

正直に言って、不遜な人が多い、という印象である。

 

 

コミティアに参加しなくなってから、

そして、自分の仕事がうまく回らなくなってきてから、

 

自分がいた時のコミティアより、一気に時代が加速している、

自分はもう古い作家かもしれない。。。。

誰にも見向きもされない。。。。

という寂寥感に襲われて、一般客として行くたびにうなだれた。

 

 

コミティアは間違いなく自分にとって

漫画のステップアップをはかれた絶好の場所であったが、

 

わたしには一定のファン、と呼ばれるものがいない、

 

ということをありありと感じ取れる場所にもなった。

 

そしてそのファンがいない、ということが、

全くの無名であるということが

のちにコミックスが売れない、ということにも

繋がって行く。

 

 

 

 

ただ、ただ、である。

 

本当は、

 

そんなことなど考えずに、もっと楽に、楽しく

自由に漫画を発表し続けてこれたらよかった。

 

 

自分が作りたいと思ったものを

自由に生み出し、発表できる場所。

 

 

へんな競争意識などコミティアにおいては

いらないものだった、というのが、

今の私の率直な意見である。

 

 

なにより、個人の表現の自由を解放してくれている

救いでもある場所なのだから。

 

 

 

。。。。今の自分には、まだあの情熱と熱気に触れる

心の強さは持てていないが、

もう少し元気が出たら、コピー本でも作って

参加したいとも思っている。

 

 

二十代後半、人生の上で超ぐうたらなわたしがあそこまで

まじめに取り組んだ時期はなかったかもしれない。

 

 

コミティアもまた、わたしの1つの青春の影であった。

 

 

わたしとヒロシマ。

本日8時15分、黙祷。

 

 

私がヒロシマを知ったのは

小学二年生の時だった。

 

学習熱心な両親と、夏の家族旅行で

山口県のザビエル記念館と、ヒロシマ原爆ドーム

原爆資料館を訪れた。

 

 

展示物はほとんど忘れてしまったが、

今は撤去された原爆を受けた人形の

破壊力の凄さは、幼かった私のトラウマになった。

 

原爆の悲惨さを伝えていない、あんなものじゃない、ということで

撤去されたそうだが、幼い私にとってはまさに

地獄を見ているような壮絶な恐怖心を植え付けさせた。

 

 

そこから戦争に関することに興味を持ち、

古本屋で「はだしのゲン」を読んだり、

当時は夏に放映されていた戦争アニメや、

ドキュメントを見て当時のことを学んだ気がする。

 

 

 

 

 

 

今改めてすごい、と思うのだが、

ジャンプで、「はだしのゲン」の連載を続けさせた

編集長の裁断は、売れる、売れない、人気をとる、以上のものを

超越した、その後もこの作品を多くの人に読んでもらえるようにしてくれた、

まさに英断だと思う。

 

あの作品を子供の時に読むのと読まないのとでは、

その後の本人の思想に大きく左右するほどかと思うほど、

漫画というものを超越した念が籠っているからである。

 

その念というものは、「経験したもの」だけが知る

当時の空気を伝えるペンの走りである、

率直な戦争への怒りを感じるからである。

 

どれほど幼い子供でも、その念は必ず伝わるであろう。

 

 

 

 

話を元に戻そう。

 

 

それから高校生になったころ。

 

原爆を取り扱った演劇をみた。

感想を劇団におくったところ、

入団しないかという誘いを受けた。

 

この頃から私は一層戦争について深く学びたいと思っていたので

是非入団して、演じてみたいと思ったが、ちょうど大学受験の

夏だったため、両親の反対にあい、諦めざるを得なかった。

 

 

そして、自分の人生上で1つ目の岐路に立つことになる。

 

平和学、戦争学をまなぶために、広島大学

推薦入試を受けることにした。

 

 

けれど、実際はそう甘いものではなく、

私が面接を受けているあいだ、緊張しながらも話しているときに、

教授陣は欠伸をしたり、体を伸びをしたりで、

まともに聞くことは全くなかった。

 

ああ、落ちたな、とそのとき察知した。

 

 

今となっては当然かと思う。

 

最近当時のヒロシマを上空から撮影したフィルムを

カラー化している大学生のニュースを見たが、

大学が望んでいるのは、まさにそのような当時の歴史の保存、

後世に伝える実質的な作業ができる者であって、

抽象的な平和を守りたいと思う中途半端な思想や考え

は吐いて捨てるほど見てきたのかと思う。

 

 

 

その後、「24時間の情事」というフランス映画をみた。

アラン レネ監督が描いた、

原爆投下後10年後のヒロシマで、日本人の男性と、

フランス人の女性が情事を重ねる作品である。

実はそのフランス人の女性は、かつてドイツ軍の愛人となり、

制裁を受けた過去をもっているという内容である。

メロドラマであるが、昭和30年、白黒の画面で平和運動を続けている

当時の広島市民の生々しさにどきっとした覚えがある。

 

 

 

 

 

それからまた時がたち、再びヒロシマについて考える時がきたのは、

こうの史代さんが「夕凪の街 桜の国」を発表した時のことだ。

 

たった32ページしかない短編の中に、人物の葛藤や

歴史的背景、作品の枠を超えた原爆を負った苦しみがにじみ出ている

最後にはおとろしい結末を迎える主人公の哀しみを読んで、

非常に衝撃を受けた。

 

 

戦争漫画、というジャンルが再び多くの人に

認知されるきっかけを作った傑作だと思う。

 

 

また、随分後になったが、「この世界の片隅に」も、

 

 

 

作家自身が物語の世界に入り込む執念

 

を見せつけた傑作である。

 

周知の通り、主人公が右手を失ってからは作者自身も

左手で絵を描き、原爆後の主人公に降りかかる悲運を

ありのままに、率直に描いた。

 

本作を描き切るのはかなりの労力を要したと思うが、

時を経て、その後映画化となり、多くの人に改めて

当時の人々の生き様や日常を伝えてくれる作品となった。

 

 

 

私は本著を読んで、やっと井伏鱒二の「黒い雨」を

読んだのだが、そこでも、奥さんが戦時中の食事メニューなどの

献立をしるしており、「この世界の〜」の日常の描き方の

ペーソスとなったことを思い知った。

 

 

「黒い雨」に関しては映画を学生時代に見たのだが、

この時はあまり理解ができずに実は内容を深く記憶していない。

 

 

 

。。。以上、私とヒロシマとの関係は

このように微々たるものである。

 

 

原爆ドームも小学生の時以来一度も

足を運んでいない。

 

 

ただ、毎年黙祷し、

原爆に関するNHKスペシャルを見るだけとなってしまっている。

 

 

 

 

これから8月15日まで、日本人にとっては

過去の惨禍を振りかえる時期になる。

 

 

死者が思いを繋いでくれる日々でもある。

 

 

日常のそこかしこに彼らは今なお生き、

私たちにひっそりと、それでも力強く教えてくれている。

 

 

今はその声が最も聞きやすい時期である。

 

 

私は彼らの言葉を、いくつでも聞きたい。