下町イーハトーブ。

漫画家森山まみちのブログです。秋田書店ミステリーボニータにて宮沢賢治の物語「銀のノスタルヂア」を不定期掲載。只今育児休暇中。2016年6月より制作再開です。

恩師からの手紙。

こんにちは。     

空梅雨のむしむしした毎日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?

 

わたしは毎日ネームと格闘しています。

それでも進むのは日に4枚いけばいい方。

遅筆っぷりに情けなくもありますが、ここで焦ってしまうと、また以前のような失敗を引き起こすので、ここはぐっとこらえてアイデアをリラックスして待っています。

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そんな中、一通の手紙が届きました。

 

わたしの恩師である画家、八木和彦先生からでした。

 

八木和彦先生は、わたしが通っていた徳島県阿波高等学校の美術の先生です。

 

2007年に退職され、現在画家として故郷の徳島県で活躍されています。

 

こちらは八木先生のHP

http://kazuhiko-yagi.com/

まるで昔の小学校のような素敵なご自宅で、絵画教室も開いています。

http://kazuhiko-yagi.com/school/index.html

 

わたしが宮沢賢治さんの世界に興味を持つきっかけとなったのは、八木先生でした。

 

先生も宮沢賢治さんの童話に強くひかれ、作品をいくつか描いているのです。

http://kazuhiko-yagi.com/gallery/2005/gallery06.html

 

 

高校の頃、初めて先生に会ったとき、その不思議なオーラから、「神父さんみたいな人やなア」なんて思いました。

 

しかも、一番最初の美術の授業のテーマが、

 

「妖精たちの住む場所」

 

「校内で妖精(あるいは妖怪)がいそうな場所をみつけて、そこにいそうな妖精(あるいは妖怪)を加えて、その場所を描く、というものです。」

 ー「郷愁ーこころのふるさとを求めてー」(八木和彦著 徳島出版)より抜粋ー

 

あまりの唐突なテーマに私たちはド胆を抜かれて、なにがなにやらわからぬまま教室から抜けだし、校内の森や花壇、廊下や校庭へと「妖精」や「妖怪」を探しに出かけたのでした。

(わたしはその授業で、たしか高校の裏の田んぼに立つ「風の又三郎」を描きました)

 

 

そのときはわからなかったのですが、今振り返ると先生の授業は、受験戦争で疲弊していたわたしたちの逃避場所であったと思います。

 

ヘンな先生やなア・・・と思いつつ、先生の発する独特の空気感や、目にみえないものを愛する心、生徒の感性を守ってくださった真摯な行動は青春まっただ中のガラスの十代だったわたしたちに驚きと信頼感、そして「ここにいてもいいのだ」「迷っていてもいいのだ」というなににも代えがたい安心感を与えてくれました。

 

 

そして今あらためて、当時の先生の行動を思い出すと、宮沢賢治さんの農学校の教師時代ととても似ているのです。

 

二人とも、目に見えないものや緑や風声を聴き、その存在を大切にしている。

 

人間が一番大事にすべきことは何かーを探し求めている求道家である。

 

 

 そういうこともあって、岩手旅行から帰ったとき、何年かぶりに先生に長い手紙を送りました。

 

賢治さんを主人公にした小さな読み切りを描くことになったことや、

イーハトーヴ旅行で感じたこと、15年間今まで長い長い惑いの旅をしてきて、

たくさん逡巡して、たくさん迷って、自分の中で大切にしていた感性や心が、

雑多な情報の中でぐちゃぐちゃになって、競走を強制され、たくさん夢破れて、

自信喪失になって、才能も枯れて、そうなってやっと・・・やっと大事なものを思い出したということ。

そしてそれがまぎれもない、賢治さんの作品や、イーハトーヴのぎんどろの木や、

誰も踏み入れない自然のままの場所をみて、それが呼び水となってでてきたこと。

 

大切なものは、自分の心の中にある。

そして、東京という土地で、自分のふるさとをこれから探し求めていくこと・・・。

 

 それから先生から返信が届きました。

 

その最初の言葉は、

 

「おかえりなさい。」

 

でした。

 

東京にいても、本当のふるさとは

「今ここ。」

ご自身の心の深いところにあります。と・・・。

 

 

そのことばを読んだ時、わたしはいままで抱えていたものがどろっと溶けだし、

その次の文面がもったいなくてなかなか読めず、こみあげてくる何かと、とめどない涙があふれ、今まで動くことがなかった確固だった「何か」がコトリ、と、卵がころん、と平和に転がるようないいようのない安堵感を感じたのでした。

そして、ずっとずっと隅田川を眺めました。

 

 

 

人は誰しも人生の区切り直し、という過程に生きているうちで幾度か遭遇します。

それはいっときに迎えるものではなく、10年以上もの長い年月をかけて淘汰してゆく中で、「必要のないもの」として見てこなかったものを、再び拾い上げ、心におこして見つめ直す過程だったりします。

たぶん、この日のことは、自分にとって、次の長い旅の始まりの予兆なんだと思います。

 

先生は昔とかわらない温かい眼差しで、私を迎え入れ、見送ってくださった。

 

感謝の念にたえません。

 

 

個人的な内容で恐縮ですが、わたしにとって幸せな一日だったので、忘れないようにこの日をなくさないようにと記しました。

 

八木先生の立体作品

セロ弾きのゴーシュ

「梟」

「イエズス」

http://kazuhiko-yagi.com/gallery/2005/gallery07.html

 

 

また、八木先生も2010年の夏に花巻へスケッチ旅行に訪れ、そのときに出会った風景や賢治さんにまつわる人たちとの交流をブログに記しています。

http://kazuhiko-yagi.com/diary/2010/11/

 

ちなみに、一番上の写真にある先生の画集の奥にあるのは、ポランの広場で拾った松ぼっくりと、花巻の「林風舎」で購入した「銀河鉄道の夜」最終稿の複製です。

 

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このカフェ&ギャラリー「林風舎」は賢治さんの宝箱のような、温かくゆったりした時間が流れる場所でした。

きっと賢治さんもふらりと立ち寄っていることでしょう。

賢治さんの実弟、清六さんのお孫さんがオーナーをされているそうです。

 

 

賢治さんはこの「銀河鉄道の夜」を枕元に置き、死ぬ直前まで推敲を重ねていました。

 

そして最期の時、

 

「これはわたしの迷いのあとですから、私が死んだあと、適当に処分して下さい」

 

と家族に伝えたそうです。

 

賢治さんは自分がひっそりと書き続けてきた原稿「銀河鉄道の夜」が、まさか72年後にスペースシャトル「ディスカバリー」とともに、本当の銀河空間を旅するとは夢にも思わなかったことでしょう。

 

一人の人間が起こした小さな創作活動は、

ずいぶん昔の過去や、ずいぶん遠い未来を超越し、旅しうるものであるー。

 

その点と線がつながる奇跡は、わたしたちが何気なく過ごしている日常においても起こりうるものだと信じています。

 

 

最後になりましたがここまで辛抱強く読んでくださった方、本当にありがとうございます。

仕事の前の簡単なブログアップが、打ち始めてなんと3時間近く!

そろそろ机に戻ります。

 

 

あ、そうそう、もう気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。

PNを変更しました。

アマチュア時代から数々のPNを遍歴してきたのですが、どうもわたしは、「木」という文字にとても縁があるそうで、新しい名前は大好きな「木」がたくさんの森と山を名前につけたいと思い考えました。

 

今後は「森山真臣乳」(もりやま まみち)という名前になります。

 

 

 

 

それではまた、近いうちにお会いしましょう。

 

 

             慈雨をまちわびながら。

 

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レンブラント・ファン・レイン

「放蕩息子の帰還」