マンガ道。

漫画家森山まみちのブログです。秋田書店ミステリーボニータにて宮沢賢治の物語「銀のノスタルヂア」を不定期掲載。こちらは主に私的日記です。

わたしとナガサキ

本日11時2分黙祷。

 

鐘が鳴る。

 

 

遠い時代の奥深くから鐘が

重く、深く重く鳴り響く音がする。

 

 

 

 

 

 

わたしがナガサキについて詳しく知り始めたのは、

ヒロシマより遅い。

 

 

中学生の修学旅行で九州に行き、

その平和学習の一環でナガサキを訪れたことである。

 

 

そこで2017年にお亡くなりになるまで原爆の惨状を

訴え続けた谷口稜曄さんにお会いし、お話を伺った。

 

多くの方々がご存じであろう。

 

背中を真っ赤に焼かれた少年の写真、ご本人である。

 

 

 

静かに朗々と、それでも力強く当時のことをお話して下さった

姿が今でも朧げに覚えている。

 

谷口さんに、「長崎の鐘」をみんなで歌った。

 

 

谷口さんは目を閉じて、涙を流しておられた。

 

 

県下でもワルで超有名だったわたしの中学校だったが、

このときばかりは、みんな谷口さんの言葉を必死に聞いていた。

 

 

その修学旅行中で、わたしは最も尊敬するナガサキ

生きた人と出会う。

 

 

 

その人は永井隆博士。

 

 

被爆当時、当時長崎医科大学放射線医学博士だった。

 

 

 

永井博士は被爆時、病院の地下にいたため

なんとか無事であったが、頭部に深い重症を負う。

しかし、陣頭指揮をとって病院に押し寄せる多数の

焼けただれた患者の救護に徹した。

 

 

翌日、実家に一度戻り、焼けた家の台所から、

妻の遺骨を拾ってまた病院へ戻り、救護を続けた。

 

 

精神的支柱となり必死で市民のために尽くしたが、とうとう

自身も被爆のため白血病が発症、病床に臥す。

 

 

博士は敬虔なカトリック信者で、

教会の有志から、畳2畳ほどの小さなおうちを

作ってもらい、そこで病気に伏しながら執筆活動を続けた。

 

 

 

その小さなおうちを、

如己堂、と名付けた。

 

 

 

己のごとく、隣人を愛せよ、という聖書の言葉から

名付けられたそうである。

 

 

博士には二人の子供がいたが、

残りの命が短い自分が亡くなった時、この子たちはどうなるのか、

その原爆への怒りと子供達の日常を書き綴った。

 

 

当時14歳のわたしは、その如己堂に初めていったとき、

人は二畳の広さでも生きることができるのだなあ。。。ということと、

 

創作は場所や人に関係なく無限であると

 

改めて感じたとともに、

かわいらしくそれはひっそりと佇むそのお家が好きになった。

 

 

博士の著書「この子を残して」は

彼の子供への愛情とやがて尽きる命の哀しみを綴った名著である。

旅行から戻りこの本を読んで、博士が死んだ後の如己堂にひれ伏す子供達の

様子を想像して号泣した。

 

 

昭和26年に永井博士は死去。

 

 

博士が愛した二人の子供もいまは天に召されている。

 

 

 

 

 

14歳に出会ったナガサキでの経験は、

わたしの心の奥深くまで染み渡っている。

 

 

 

 

人間の「真我」というものがあるのなら、

それをはじめて教えてくれたのは

永井博士であった。

 

 

 

長崎では有名な方で、昔、過去の偉人を取り扱った番組

「知ってるつもり❓」でも登場したが、

今は博士の存在は静かに忘れ去られようとしている。。。。

それが残念でならない。

 

 

そして。。。

 

 

 

 

びわたしがナガサキを訪れたのは

23歳の時であった。

 

 

 

私は大学卒業後、

就職活動もせず当時大磯にて隠遁し、

無職でうつを発症していた。

 

 

一番しんどかった時期だった。

 

 

 

そのとき、自分が初めて心の奥から

真実と思えるものを教えてもらった

如己堂に、再び行きたくなった。

 

 

生きることを模索していた。

 

 

 

1人ナガサキの資料館を訪れ、

ちょうど長崎くんちの時だったので

それを楽しみ、

 

ひっそりと佇む如己堂へ赴いた。

 

そこで数時間、軒先に座って何も考えずに過ごした。

日に焼けた畳も、14歳の時にみたままであった。

 

 

安心した。

 

わたしは14歳の頃と全く変わっていない。

 

 

 

 

ナガサキから帰ってきた後、

わたしは如己堂を舞台にした16ページの

作品を、一年かけて作った。

 

 

16ページで1年もかかるなんて、

ふつうに考えればとんでもないことだが、

 

当時うつがひどかった身にとっては

それが精一杯だった。

 

 

その原稿を描いて、ゆっくりゆっくりと

自分の心を癒した。

 

 

この一年は今振り返ると、

なんと贅沢な一年だったろうと思う。

 

 

 

 

 

漫画の内容は確か耳が聞こえない女性と、

新聞配達の青年が如己堂で知り合い、

最後は長崎くんちで締めくくる。。。みたいな

話だったと思う。

 

 

原稿の評価は、その後アシスタントをする前に

技術を先生に見てもらった時、

荒削りだがここまで絵を綿密に執拗に描くのも珍しい、

といわれた。たったそれだけである。

 

。。。一年もかけて描いたので絵がくどかったのは

当然かとは思う。。。

 

 

 

 

そこから、バイトに行きだし、ゆっくりとゆっくりと

自分の漫画の模索も始まっていった。

本当に牛歩のようなペースだったが、漫画を描く、

というフェーズにゆっくりと、向かっていった。

 

 

 

23歳で訪れたナガサキは、14歳のときに感じた

 

 

なにか忘れてはならない

人の魂の中で最も大切なものを

思い出すための旅になった。

 

 

わたしはそれを「真我」と思っている。

 

 

 

ただ、残念なことは

 

十代の頃はナガサキの漫画をいつか

かければいいなと色々考えていたのだが

ネームをきっても、メロドラマ調になってしまい、

 

 

 

時が流れ、その意欲は薄まっていった。

 

 

今でもヒロシマナガサキを描けることは

わたしには難しい、と思う。

 

 

 

 

ナガサキにおいても、毎年黙祷し、

NHKの特集を見るだけ、という

毎年の流れになっているが、

 

 

それでも、

 

 

あのちいさなおうちは、

一生わたしの胸の中の

安らぎの場所として生き続けている。